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モーツァルト一考・代表 加藤明のコラム(K618)

《死はぼくらの人生の真の最終目標ですから、数年来ぼくは人間のこの真実の最上の友と非常に親しくなっています。その結果、死の姿はぼくにとって、もはや恐ろしくないばかりか大いに慰めてもくれます。そしてぼくは、死こそぼくらの真の至福への鍵であることを知る機会を与えてくれた神に感謝しています。》 1787年父に宛てたモーツァルトの書簡から

「あんだサ、息子の結婚式たのみに来たんだ・・・」。

2002年4月、ススムさんが私の勤務する結婚式場に前ぶれもなく来訪し、トレードマークの白い丈夫な歯を見せながら、こんな風に告げました。

“おや?”久しぶりのススムさん、前回あったときとはずいぶん印象が違っていました。野球小僧がそのまま大人になったような純心そのもののスポーツマン、ススムさんと私はお互い息子が同じ高校の野球部に所属するという縁で10年前に出会いました。その高校のクラブ活動を支援する父兄会で私とススムさんは学級委員長と副委員長のような役柄で子供たちのために親バカぶりを発揮し、たくさんの思い出を共有した仲でした。

そんなススムさんの病み上がりを連想させる変貌ぶりに私は厭な予感を抱きながら尋ねました。

「なあに、ススムさん、どっか悪いんだが・・・・?」。

「うん、先月までちょっと入院してたんだ・・」。

白い歯を見せながら、苦笑するススムさん。どこか本調子でない。聞けば正月あたりから食欲を欠くようになり、診察の結果すい炎の疑いがあり、二ヶ月ほど入院加療し退院したばかりとのことでした。お互い成人病に罹りやすい歳になってきたことを思い、健康管理に気を配ろうなどとお喋りしたあと、「ススムさん、また秋にみんなで旅行するぞ!」と話題を恒例となっている父兄会仲間の一泊旅行に移しました。

「うーん、ンダンダ楽しみだなあー!」精気を取り戻した満面の笑顔のススムさん。

さらに白く光る丈夫で健康的な歯が大きく映りました。

さて、ススムさんの二男Y君の結婚式はその後のやりとりで年内に執り行うことに決まりました。ススムさんの唐突な来訪から二ヶ月後の6月初旬に、私はY君と婚約者のMさん

二人を招きました。結婚式や結納についての打ち合わせをするためです。

高校を卒業して早や10年、礼儀ただしい好青年に成長した逞しい体躯のY君と久しぶり

の再会を喜んだ私。ススムさんによく似た照れくさい笑顔がそこにありました。

打ち合わせはトントン拍子にはこびました。ただ、挙式日については確定できないままでした。挙式日選定を残したまま私が何気なく話題を父君ススムさんのその後の回復具合に触れたときでした。

「父さん、その後なんとしている?」。

「・・・・・・・・・・」。

それまで淡々と話していたY君が言葉を止めたのです。そればかりか、俄かにY君の眼が

雨が降るかのように曇りだしたのです。その一瞬の暗雲は私にとって時間の刻みを停止させる告白の前ぶれでした。

「加藤さん・・、俺の親父・・、医者から、もっても一年くらいだと言われたんです・・」。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」。

婚約者Mさんと三人だけの沈黙。いえ、ススムさんを真ん中にして4人で向き合った長い沈黙でした。心の中での荒れ狂わんばかりの喧騒と葛藤が強いる惨い沈黙。

私はY君を正視することができませんでした。ここで正視することは、このあまりに惨い

結末、わが友ススムさんの死を容認することになるから。そして、眼の前の二人の晴れ舞台が危ぶまれることになるからでした。

私は二ヶ月前、ススムさんが久しぶりに来てくれたあの時の厭な予感が的中したことを恨みました。そして、動揺し狼狽し混乱をきたし、言葉を失いました。

一方では、私は深刻な姿を二人には見せまいと敢えて平静を取り繕う努力をしました。

やや間をおいて、ススムさん本人にはこの病の深刻さは知らせていないこと、今後も一切

知らせない方針であることを確認しました。その上で、とにかく事情が事情なだけに二人の晴れ舞台をススムさんに是非とも観てもらいたい。だから、挙式日はできる限り早めに、と促しました。

その結果、挙式は12月の初めと決まりました。残るはススムさんの病気が癒えることを願うのみです。打ち合わせを終えての帰りぎわ、二人は私と思いをひとつにした安堵感もあってか笑顔をみせてくれましたが、ホッとしたと同時に大変な事態になったことを独り反芻していました。

“こんなことがあっていいのか・・・・・”

9月の第2日曜日、恒例の父兄会の仲間が集う一泊旅行が行なわれました。

ススムさんも予定通り元気になって参加してくれました。

ススムさんの深刻な病状については私以外の二人の幹事役にも“内密に”ということで知らせました。もしも旅先で体調を崩したときの対応を考慮しての判断でした。

二人の幹事は私の意図を真正面から受け止め、黙秘の約束を最後まで守ってくれことは言うまでもありません。そればかりか、旅先でのススムさんへのさり気なく温かい配慮をみ

せ、私を驚かせました。友情がなせる自然で温かい気配り。ほんとに嬉しかったものです。

今回の目的地は私が選んだ花巻の大沢温泉でした。

宴会ではススムさん、いつもと変わらず飲み物はコカコーラとウーロン茶。お酒は一滴も飲りません。私同様まったくの下戸のススムさんは土地の川魚や山菜料理を摘みながら、いつもの野球談議や成長した子供たちの話を楽しんでおりました。

大沢温泉でみんなで入った大浴場。ススムさんの大きな声が湯煙のなかに朗々と響きわたったとき、“ほんとに病気なんだろうか?”と心底私はY君の言葉を疑いたくなりました。

“きっと大丈夫、何かのまちがいだろう”と思えば思うほどに複雑な感慨がスーッと宿るのでした。二人の幹事も私と同じ心境だった、とあとで知りました。

“ススムさんは回復したのではないか”。

もちろん、私はススムさんとは旅行の最後まで共に過ごしました。今にして思うと、一緒にくっついていることで心の安定を得ようとしていたかのようです。

結局この旅行会、表向きはいつもと変わらぬ今までの旅行会のままそれぞれが帰路に着いたのでした。

無事に秋田に戻って仲間と別れたあと、二人っきりでそれぞれが車を置いてあった駐車場まで歩きました。暗闇のなか、並んで歩きながら「やあー、加藤さん今回は楽しがったな、ありがとさん!」。

「・・・ススムさん、しかしみんないい仲間だな・・」。

「んだなあー!ほんと」と。

別れ際、「こんどYの祝儀の件よろしく頼むナ!」。

「うん、チャント準備する、心配するな、また連絡するがら・・」。

旅行会が終わって2週間ほど経った9月末のことです。会社で机に向かっていた私にススムさんから予期せぬ電話が入りました。

「いま、加藤さんの会社が見えるどご(ところ)がら電話してるんだ」いつもと変わらぬ元気なバリトンです。

「なに?ススムさんどごさ(どこに)いるの!?」。

「いまよぉ、N病院の5階さ居るんだ」。

あのときの沈黙のイメージ、厭な予感が再び私を襲いましたが、早速、N病院に見舞いました。そこには普段となんら変わらぬニコニコ白い歯のススムさんがおりました。

入院したのは2日前で、500歳野球やら、農作業やらの疲労がたまって調子を崩した、

との話でした。「少し休めばよくなるさ・・」と唯ただ元気づけるしかありません。

「加藤さん、Yの結婚式頼む、よろしぐナ」。

「心配しなくていいがら、早く直そう、ナ!」。

病院という環境のせいか、厭な予感が不吉な現実味をもちつつあるのを抑えながら、私は

そう独り言のように言い、強く握手して病院を後にしました。

それから一週間おきくらいに病院に見舞いました。ほとんどがスポーツ新聞を携えて。

しかし、次第に精気を失っていくススムさんをどうすることもできません。

その後も自分の無力さを確かめるようなお見舞いという儀式の繰り返しが続きました。

ススムさんと二人で話した最後は大沢温泉の旅行会のスナップ写真を届けようと見舞ったときでした。

ベットから身を起こしたススムさんはいつになく饒舌でした。

今年の田んぼの出来具合、高校野球やプロ野球の結果談義、もちろんY君の結婚式の準備などについて、滑らかに話すススムさん。そして、「来年はかあさんと旅行さ行ぐんだ」と嬉しそうに、弾むように語るススムさんでした。

ついで私が持参した写真を見詰めながら、不意に「ところで来年はどこさ行ぐんだっけ?」と翌年の旅行会の計画を訊ねたのでした。

「???・・・・・・・・・・・・・」。

ああ、あの一瞬の間合い。不覚にも言葉を呑んでしまった正直者をこの時ほど責めたことはありません。何で間をおいてしまったのか・・・。

このあと二人を沈黙が支配しました。それは、お互いが同時に言葉を捜すことで引き起こされた沈黙であり、私にとっては、自分が不用意に招いてしまった負い目の沈黙でした。

振り返ると私にとっては、Y君からススムさんの病気の内実を聴いたときに強いられた  4人でのあの惨い沈黙以来の二度目の象徴的な間合いであり、真空のような静寂でした。

ススムさん、あの時、私はあなたの寂しい眼差しを視てしまいました。圧倒的でした。

それは10年を超えるあなたとのつきあいでも勿論はじめて眼にする表情でした。

あんなにも虚ろで寂しい眼差し。ススムさんの美しさに撃ちのめされました。

実はあの沈黙の状況で、一瞬私は不謹慎ながらモーツァルトの肖像画を連想していました。

ヨーゼフ・ランゲというモーツァルトの義兄が描き残した有名な未完の肖像画です。

あの虚ろさ、あの寂しげな眼差しを眼の前のススムさんと重ね合わせていたのです。

最後となったお見舞いのあと、私に残された作業はただひとつ祈りだけとなりました。

病院からの帰路、武満徹という作曲家が言い残した「音楽は畢竟、祈りだ!」という言葉がスーっと、頭をよぎりました。

私は歩きながら天を仰ぎました。

ヒトの悪口を言わない協調の人、スポーツを愛する純朴な人、家族思いの土着の人ススムさん。そして、見舞いの儀式にあって、一度も痛いとか苦しいという表情を見せないプライドが高く強靭な精神力をもった勇気の人、そんなススムさんがはじめて垣間見せた深い寂寥感漂う表情を想いつつ、祈ること。

ススムさん、あなたが私にしてくれたことは、“ああせ、こうせ”といった方法を教えてくれたことではありませんでした。ましてや、こっちのほうが良いよ、といった物事の選択を示唆することでもありませんでした。

ススムさんが私にしてくれたことは、そんな表面的な知恵や利得の話ではなく、二人称で呼び合える一人の仲間として、あれほどの純朴さと悠然とした温もりを湛えた人格が現にいるという存在感であり、その黙示と啓発というようなものだったと思っています。

だから、あなたは唯わたしの前であの黒々とした逞しい顔と丈夫な白い歯とそしてネバリのあるバリトンをもったススムさんでありさえすればよかったのです。

そんなススムさんが眼の前から消えようとしていました。

ススムさんが病苦から解放されたことをY君から電話で聴いたのは祈りの作業をはじめて一週間ほどしてからでした。

私はこの友の訃報を不思議なほど平然と受けとめました。いや、受けとめることができるようになっていたのでした。ススムさんの強靭な魂、高貴なプライドに対峙して身構えることができたからなのかもしれません。

実はY君から容態がかなり厳しくなった、との連絡がはいってから私はモーツァルトのレクィエム、辞世の曲となった「ラクリモサ」を連続的に聴くようになっておりました。  「ラクリモサ(Lacrimosa)・涙の日」の歌詞は綴っている。

かの日こそ涙の日なり         されば神よ、彼をおしみたまえ

罪あるもの裁きをうけんため      あわれみ深き主イエスよ、

灰よりよみがえり           彼に安息をあたえたまえ

当のモーツァルトはこの「ラクリモサ」の8小節まで書いてこの世を去りましたが、いまこうして歌詞を噛みしめてみると、死の直前まで衰えることのなかった曲想の深さと秀逸さに慄然としてしまいます。

どうして、モーツァルトの絶筆となったレクィエムを集中的に聴くようになったのか。

それは、この曲が深い魂のさまよいを私に感じさせるからではないかと推測しています。

真実モーツァルトにあって、このレクィエムほどに死に向かって屹立し、命の尊厳を謳う曲を私は識りません。モーツァルトが最期に到達したあらゆる人種や宗教を超えた普遍的で究極の音楽美の世界といっても良いでしょう。

そして本来、レクィエムは死せる者を悼み、慰めるべくつくられた曲であるはずなのですが、私にとっては祈りの作業の延長として、いつしか見舞いの儀式に疲れた中年男を慰める一曲ともなっていたのでした。

あの日を境に、照れ屋で黒い顔、白い丈夫な歯とネバリのあるバリトンのススムさんとは会えなくなりましたが、これからも私が自らを語る意識がある限り、あの完璧な美しいままのススムさんは共に生き続けると思っております。

ありがとう、ススムさん。

付記  Y君とMさんの結婚式はススムさんの遺志をうけ、予定通り12月初旬に挙行された。
参列者の温かい祝福、そして深い哀惜の声がススムさんにとどいたものと思います