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会報より

私のモツ・レク・・・・・会員番号 K622 関昌威

私が加藤さんからモォツァルト広場に何か書いてくれと依頼されたとき、私は音楽のプロでないし、加藤さんのように夜も昼もモーツァルトの人でもないし、皆様に呼んでいただける深い知識も持っていないと固辞したのですが「関さんなりでいい」といわれて引き受けました。

私の本格的なクラシック音楽との出会いは50年前の高校一年のときでした。当時私は石川県金沢の県立高校の学生でした。ガールフレンドがいまして、秋田の聖霊高校と同じミッションスクールの学生でした(Aさん)。この頃まではクラシック音楽を特に意識して聞いたこともなく、イージーリスニング的に聞いていたと思います。
私の学園祭にAさんから誘われ、生まれて初めて宗教曲のライブに出会いました。ヘンデルのメサイアでした。なんとドラマチックな音楽だろうと思いました。それ以来、宗教曲を中心にクラシック音楽を聴くには名曲喫茶に行くか、NHK第2放送で聴くかのチャンスしかなく、高校生の私はラジオが主でラジオを左右に置き、ステレオ感を出して聴いていました。当時宗教曲をラジオで流すのは非常に稀でした。また喫茶店でも宗教曲を置いている店は少なく、まだSPの時代で宗教曲が幅広くでていませんでした。

さて高校二年の一学期に近所に引っ越して来た家がありました。ある朝その家の前でわが校のセーラー服を着た学生に出会いました(Bさん)。Bさんの家は夜、前を通るとヴィヴァルディーの「四季」が時々流れていて、金沢では珍しい家でした。そのとき、彼女が神戸の芦屋から転校して来て、同学年で隣のクラスで、父が転勤族で、クラシック音楽がすきでということもあり、親しく交際するようになりました。Bさんがクリスチャンだったこともあり近所のキリスト教会にも一緒に通い、卒業後は二人でICU国際基督教大学に行こうと決めていました。受験勉強に疲れると夜中に連れ立って近くの朝野川や卯辰山まで足を伸ばしました。私の母はBさんが好きで将来のお前のお嫁さんになればいいね等と言っていました。そんなときにアクシデントがありました。私は前述のAさんとは色恋ではなく友人としてのつきあいでしたが、彼女もICU志望でしたので時々会う事もあり、高校三年秋Aさんから学園祭に誘われ、妹と一緒に出かけました。帰り道でBさんにバッタリ会ってしまいました。間が悪く妹が先に帰り、私とAさんと二人きりでした。

それ以降3ヶ月なんとなくきまずく、会うチャンスがなく、受験のためのラストスパートの時期でもありそのまますぎました。
Bさんのお姉さんから突然電話があり「急に転勤することになったこと貴方しってますか?最近あまり家に来ないので何かあったのではないかと思って念のため電話しました」という内容でした。金沢を出発する日時を聞き、駅に行くと同期の連中やご近所の人たちが見送りにきていました。私が声をかけるとBさんは走りよってきました。そして二人で両手を握り合って相当長い時間そのまま涙を流して見つめ合っていました。彼女は大阪の枚方にいき彼女の姿に接するのはそれが最後でした。二ヵ月後にお姉さんから電話があり「妹が心臓弁膜症で急死した」とのことでした。それ以降空白の三ヶ月への悔恨の念と約2年間の彼女との思い出のために、受験に失敗しました。翌年再チャレンジしたICUにいけず、立教大学というミッションスクールに入りました。

その頃名曲喫茶で決まってリクエストしたのはその店にある「レクイエム」でした。またレクイエムが発売されるとレコードを買いに行きました。現在31曲分の作曲家のレクイエムがあります。昭和46年頃までは結婚してはいましたがレクイエムを聴くとBさんを思い出していました。Bさんは常に若く、可愛く、年とりません。丁度その頃、カールベームのレクイエムに接しました。いろいろモツレクがある中で最も好きなものです。モーツァルトの白鳥の歌は他の作曲家たちと違って、深い悲しみに浸るのではなく新しい未来を示してくれました。

最後に私の好きなもう一つのレクイエム(グレゴリオ聖歌より)を紹介します。

ドン・ジョセフ。ガジャール神父指揮アルジャンタん・ノートルダム女子修道院聖歌隊による死者のための典礼です。天国にいけます。