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会報より

会員番号 K488 佐藤滋のコラム「酒とモツの日々」

酒とモツの日々(19)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

無能な教師は去れ!と厳しい姿勢で臨んだ前首相の残した仕事に教育基本法の改正がありました。その中では伝統と文化を尊重する姿勢がうたわれていますが、すぐ極端にはしるのが日本人。自国の文化を愛するあまり、人類の文化への価値観が狭量になってしまわないか、ちょっぴり心配になっています。
  昔、熱烈な愛国者であり、モーツァルトも愛好する日本の某文化人が、「日本の伝統音楽が消えるのがいいか、はたまたモーツァルトが消えるのがいいか」と過激な(くだらない)質問をされました
  質問にどう答えるか、でその人の人柄、見識が試されることがあります。多くの政治家がこれで評判を落としていることはご存じの通り。また良心的な人ほど回答に戸惑い、座が白けてしまうのはお互い経験済みですね。
  日本の文化を世界に発信して、日本の評価と権威を高め、尊敬される国づくりをしよう、とする動きは昔も今も変わりません。自身が属する文化を、相手にも認めさせ、さらに屈服させたいとする衝動は誇り高い愛国者や野心的政治家にはつきものです。今世紀に入って続発するテロも、イデオロギーというよりは宗教対立・文化の衝突であり、それ故に一般の人をも巻き込んで、より残虐化・顕在化しているのでしょう。
さて、モーツァルトは自身を権威化したりはしませんでした。楽しませよう、と思って創られる音楽に必要なものは唯我独尊ではなく、天賦の才能とサービス精神だけだからです。大司教にお尻で挨拶をしたことや、無関心な宮廷人への様々な振る舞い等、彼の権威嫌いを示す逸話は数限りなくあります。
  酒は銘柄で飲むものでなく、音楽も権威で聴くものではありません。酒は舌を、音楽は耳を通して心へ至るエンターテインメントであり、気取らず楽しめばいいのだし、押しつけるものでも、ひれ伏すものでもありません。大切なのは「楽しいか否か」であり、「こうあるべきか否か」ではないということを彼の音楽は示しているのだと思います。
  さて、冒頭の日本人の回答。彼は「モーツァルトが消えないことを望む」と微笑みながら静かに答えました。日本文化に誇りを持ちつつ、モーツァルトの永遠性を疑わない故の発言だと思います。無駄なことは言わない極意のようなものですね。


会員番号 K488 佐藤滋のコラム「酒とモツの日々」

酒とモツの日々(16)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

先日ドックに行って酒量を聞かれた時、「一日銚子1本です」と左の棚を見ながら告白したところ(人は嘘をつく時、視線を左に逸らすそうで・・・・)極めて適量です、と誉められてしまった。(自己嫌悪・・・)
酒は「百薬の長」と言われるように適量であれば健康維持に効果的な飲み物ですが、同時に会話の小道具としても欠かせないものです。酒を飲むことは、自分を解放することですから、酒は人類に与えられた貴重な交歓のツールでもありました。しかるに近年の酒席は只飲むことが主目的となって、語り合うことは脇へ寄せられている場合が多いようです。それは飲み方が下手になってきた以上に、聞き方が下手になったということではないでしょうか。
酒席の音楽も、昔は盃を手に共に歌うことでありました。(「こうもり」「椿姫」「ボエーム」&「ちゃんちきおけさ」・・等々)あるいは語りや音楽に耳をかたむけ、それを肴にすること(「ドン・ジョバンニ」「カルメン」「ホフマン物語」&「黒田節」・・等々)であったはず。 決してカラオケで一人ずつ浮いたり、「イッキ」や「返杯」を強要することではありませんでした。モーツァルトも酒場で一緒に飲み、歌い、語り、聞くことは大好きでしたが、話を聞かない、音楽へのマナーのない“無法者”には我慢がなりませんでした。
酒席は話すことと同等に聞きあう場です。話すこと、聞くことで心の空隙は埋められてゆきます。(モーツァルトの音楽が心を癒す薬であるように、酒も治癒を促す薬でもあるのですね。)「個の重視」の行き過ぎにより、かえって共有、共鳴、共感といったことを軽視する自分勝手な人が増えてきました。 指導者も市井の人も、聞きあうことが今ほど求められている時代はないのかもしれません。耳を傾けることが出来る人ほど、酒と音楽と人生の味わいを知っている、とも言えるでしょう。モーツァルトと適量の酒がもたらす「感動」という副作用を、今夜も楽しみましょうか・・・。
それにしても、その後の医者の言葉は感動とは無縁の宣告でした。「もっと減量しなけりゃダメですね」(自己嫌悪・・・)


酒とモツの日々(15)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

モォツァルト広場恒例12月のアニヴァーサリーコンサートでは福引きが行われるが、私が狙う景品はいつもモーツァルトワイン。中身はさもないオーストリアワインだが、モーツァルトの名を冠しているだけで、権威に弱い筆者は、これが飲めぬと年が越せぬとばかり、当選番号発表には目が血走ってしまう。
さて、中身の勝負となれば、今ワイン通の注目をあつめているのが、お隣の国ハンガリーのワイン。秋田とハンガリーは文化交流が盛んで時々物産展も開かれ、ワインの試飲も行われているので是非御見聞を。そのハンガリーでも歴史を誇るのが、トカイ地方で産されるトカイワインで、そこに所蔵されている最も古いワインは1765年産というからモーツァルトが9歳の時のブドウで造られた。彼が交響曲第3番を作曲した頃に摘み取られ、以来240年間、人知れず静かに眠り続けていることになる。
トカイというハンガリー東北部の山間部、ポーランドとウクライナの近く、前世紀は鉄のカーテンの向こう側で、何故これほどまでに優れたワインが産み出されてきたのか?察するにワインにたいする誇りと拘り、そして資本主義の競争、コスト主義に巻きこまれず、極めて純粋で愚直なまでの酒造文化が、いつの間にか今日の高い評価に結実したのではないかと愚考している。
誇り高い人にとっては自身が所有する文化を、相手にも認めさせ、さらに屈服させたいとする衝動は強いものに違いない。日本ほどコンクールが盛んな国は無いし、日本の文化を世界に発信して日本の評価と権威を高め、尊敬される国づくりをしよう、とする政治家の発想は60年前から少しも変わらない。
「私は、文化は純粋に文化的動機をもって、自然に世界に弘布されていきたい、と思う。現在日本で文化立国を主張する人々には、私の言うところのごときは、悠長な、いつどこに結果が出てくるか解らぬ閑な事業のように見えるでありましょう。しかし、文化とは、そういうものなのであります。それによって直にどういう結果を挙げようというような動機のものではありません。そういう利害の打算を離れた、それ以上のものなるがゆえに、文化には術策以上の浸透力があり、結果が見えないだけそれだけ大きな深い結果がいつの間にか挙がるのです。軍国主義に破れ、それにこりごりした日本が文化立国を主張するのは当然でありますが…」 (矢代幸雄昭和21年の講演より)傍点筆者
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権威や名声に弱く、本当の価値を見誤った私たちの前世によって、モーツァルトは墓も得られず、文字通り永遠の旅人となってしまった。けれども、モーツァルトワインに血迷う私のような者でさえ、素直にその音楽を受け入れようとすれば、彼は今も、そばに立ち止まっていてくれる。姿は見えなくとも、その人の明るく優しい調べに、私は涙をこぼすのである。
何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる(西行)


酒とモツの日々(13)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

東京で何とも印象的な酒に出会った。青森の「田酒」という。この味わいはどう表現したらよいのだろう。「これという特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気取った味である。よく言えば水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の味」
秋田の清酒がわざと贅をこらし飲むごとに「ネェ、僕おいしい?おいしいでしょう!」と子供時代のモーツァルトのように、喉に囁きかけてくるのに対し、田酒は現代娘のように素っ気ない。振り向きもせず喉元を通り過ぎてゆく。地元でもめったに手に入るものではなくて、まして庶民には手の届かない逸品だと諦めていた。ところが、である。
先日立ち寄った太宰治記念館(旧斜陽館)の向かいの食堂に「田酒あります」の貼り札。さっそく見せの人にお願いして一本譲り受けてきた。

私は昔、太宰が嫌いであった。行く先の定まらない長々としたセンテンス、これほど才と財に恵まれているのにどこか卑屈で斜に構えた、軽薄とも思える作風を敬遠していたのである。
若くて未熟な心は毅然とした強い自己主張に溢れる文に惹かれるらしい。
私は昔、モーツァルトも嫌いであった。苦労を知らないような、軽くて楽しい音楽になじめなかったのである。若くて単純な心は、喜怒哀楽とイデオロギーに満ちた激しい音楽に惹かれるからだろう。

モーツァルトを深く聞くようになったのは、人並みの苦渋を学んでからだと思う。「贅美な日常にモーツァルトほどふさわしい音楽はないのも確かだろうが、でも贅沢な生活人は旋律の華麗さに酔うだけだ。悲しみはわからない」
(五味康祐「堕落天使」)


酒とモツの日々(12)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

今回は「ちゃんぽん」(入り混じる様子。転じて違う種類の酒を同時に飲むこと)です。めだたく12回を迎えて、「酒とモーツァルト」についてちゃんぽんに考察してまいりましょう(12解明と何の関連性もありませんが・・・)

私は日本酒、洋酒どちらも空きなのですが、混ざってしまうとどうもいけない。音楽でも気持ちよく演歌を聴いているときにクラシック音楽が強引に割り込んでくると拒否反応を起こしてしまいます。とはいえ多様な音楽に触れることが情操には大切であることはよく知られています。多彩な音楽の個性に親しみ、共通の感性を持つ人たちと交わり、それぞれ固有な音楽正解への素直な共感が生きる楽しみを与えてくれるのです。

さて、昔は民謡、唱歌等世代を超えた文化の共有がありました。人々が同じ曲にみなで共感し熱狂した時代もあったのです。だから懐かしい曲は誰にとっても郷愁を誘う共通曲でもありました。が、すべての面で新しくなるサイクルが非常に短い現代に生きるる人々に互いに共有できる音楽と言うものが、どれほどあるのでしょう。個性の尊重、趣味の多様化、せつな的な流行が、意外なところで排他的、独善的な価値観を助長させているだけでなく、社会のグローバル化が文化のチャンポン現象を一層推し進めている様な気がします。

さてそんな中でも精神医療の専門家によると、時代・環境を超えた普遍的なもの、特にモーツァルトの音楽は、それを初めて聴く人にもよい効果(心のケア)があるそうなのです。モーツァルトは年齢、性別、地域、環境を越えて寄り添ってくれるのです。250年も前の音楽がなぜこんな力をもっているのでしょう。不思議なことだと思います。

(以下次号)

ところで私は日本酒と洋酒のチャンポンは苦手ですが洋酒同士(ビールとワイン、あるいはウィスキー、カクテル等)なら一向に構わずどんどん楽しむことが出来ます。モーツカルトとハチャトリアンの組合せも苦になりません。モーつかると一筋と言う「広場代表」のピュアな感性はホントに素晴らしい?ものだと思います。


酒とモツの日々(11)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

酒にいろんな種類があるように、作曲家にも様々なタイプがあります。モーツァルトの先輩であるハイ問屋、後輩であるベートーヴェンは共に革新者でした。全社は新しい形式や演奏形態を創造し、後者は音楽をロマン派へと導き、さらに思想の表明を導入したのです。

モーツァルトはどうだったのでしょう。彼の場合は何かを改革した、革新した、というよりは、多くの情報を集め、自身の中で翻訳、発酵させ、音楽をそのもっとも美しい姿に集大成した、と言えるのではないでしょうか。それは幼少時からの世界楽旅による経験が大きく影響しているのだと思います。

彼の作品に、ハイドンのような試行、実験やベートーヴェンのような加齢による円熟がさほど見られないことはよく指摘されます。しかし、かわりにコスモポリタン的な普遍性、明るさ、温かさが作品に充ちていることは、他の天才とは異なる気質、そして変革より包容を志向するおおらかな才能を感じさせないでしょうか。

今の時代、私たちはあまりにも変わること、変えることを求められています。あわせて情報発信や意思表明、出処進退や自己主張、等を強いられるようにもなりました。それができないと存在そのものが危うくなるような時代です。めまぐるしく変わる商品、流行、さらい価値観、評価、方針等。

ハイドン、ベートーヴェンはいわば数少ない勝ち組の変革者でありました。誰でもが改革者になれるわけではありません。その陰で星の数ほどの作曲家が、自分の生き方を見つけられずに失意の内に消えていったのです。

無論、私たちはモーツァルトにもなれません。けれども彼のように多くの情報を集め、自分の中でそれを翻訳し発酵させ集約することで、ありのままの自分の処世を見つけてゆくのも一理あることと思います。過剰な自己主張よりも誰もが見守りたくなるような、耳を済ませてみたくなるような、声をかけてみたくなるような、そんな言い方を目指してみてもいい、と思ったりするのです。

鮭の世界でも、品目は頻繁に変わります。お気に入りでも、それが少数派であれば店頭から消えるのが商品の定めです。が、その中でも頑なに味を守ろう、製法を変えまいとする、主張よりも主義にこだわる、だから大手にはなれない小さな銘柄があります。私たちはそんな商品をもっと大切にしてもよいのではないかと思います。


酒とモツの日々(10)・・・・・・ 会員番号 K488 佐藤滋

仏像が好きで、機会があれば見てまわるのだが、特に音楽を感じさせる仏像がナラに二つある。技芸天と百済観音である。

今は観光名所となってしまったが一昔前の秋篠寺を訪れる人も少なく、技芸天(芸能を司る神)の周囲は時間が止まったように、それでいて温かく穏やかな緊張感に満ちていた。目を閉じて少しうつむき加減のお顔は、これから生まれ出ようとする妙なる調べにそっと耳を済ましておられるように思えて習い。横に回って改めて見上げた時、閉じられた目が開かれると、それはヨゼフ・ランゲの描いたモォツァルトの肖像になることに気がついた。

百済観音はどう表現したらいいのだろう。ほのかな笑みは、美しい音楽の心がほぐされ雌伏のひと時を衆生と共有されているお姿のよう。畑中良輔氏も(「も」といっては不調法だが)百済観音を観てモォツァルトを感じるという。「どんな汚れも許さぬ清澄さの中に、恐ろしいまでの官能の匂いを隠している。モォツァルトの音楽も限りなく美しい潔癖症がありながら、一皮はいでみると、そこには人間の持つあらゆる汚濁がひしめいている・・・」と。

私にはそれほどの感性・知性はないが、不幸の中でも存在する喜びを分かち合おうとした作曲家魂が、百済観音(不幸な由来を持つ。法隆寺本来の仏ではなく、長らく貸し出されたり、宝蔵殿のガラスケースに隔離されていた)の穏やか案微笑と共鳴するように思えてならないのだ。

モォツァルトは陽気な酒好きであった。百済観音も左手に「とっくり」をぶら下げている。「酒買い観音」と呼ばれる所以だ。酒におぼれず、酒に逃れず、我が道を行く酒好きの心意気が感じられて、その場を離れる私もいつのまにか微笑んでいるのである。


「酒のモツの日々(9)」 佐藤滋

 諸君、そろそろネタ切れだと思ってるな・・・。いやいや、モーツァルトの偉大な世界が無限であるように、このネタのくだらない世界もキリがありませんぞ!(「やれやれ」編集部)。ということで、今回はよいこの皆さんにもお勧めできるR指定解除の「甘酒」についての考察です。
といっても、これは白米と米こうじを原料としている甘味飲料でアルコール分はほとんど含まれておりませぬ。<日本書紀>の昔から、甘味料の少ない時代には広く愛飲されたようである。さて、ここで私が感心するのは、日本人は自然の食材から甘さを引き出し、無害な甘味料を発明してきた、ということである。
モーツァルトは、晩年、肥満傾向にあった。(モォツァルト広場には少年期から肥満傾向の役員がいるんですよ、ウフッ・・・「R。この分削除」編集部)彼はコンスタンツエの作るポンチを愛飲したというから甘党なのだろう。問題はその甘さは何によるものか、ということだ。
当時のヨーロッパではワインに甘さを加えるためには平気で鉛化合物を使ったらしい。ベートーヴェンの子音は鉛を含んだ年代物ワインの飲みすぎによるものだ、とも言われている。モーツァルトの死因は「砒素」だの「水銀」だのかまびすしいが、いずれにしろ「人工物」が体内に蓄積されたことにより彼がこの世で短命を強いられたことに変わりはないと思う。(当広場では肥満役員の健康・減量が最大の関心事です、ウフフ・・・「R。解除!」編集部)
ところで 、よいこの皆さんは「甘さ」から何をイメージしますか?(おじさんは人から生き方が「甘い」といわれてま〜す・・・「R。解除!!」編集部)

R指定(rating)子供の健全育成に好ましくない傷つける表現や、模倣を誘う表現の鑑賞を禁じること。


「酒のモツの日々(7)」佐藤滋

娘がスペイン土産にシェリー酒を買ってきてくれた。甘苦く強烈な舌触りを愉しんでいると、自然とミシェル・ポルナレフ(70年代フレンチポップスのスーパースター)が歌う「シェリーに口づけ」を思い出してしまう。(もっともこの場合のシェリーは酒ではなく、全てを捧げたい女性のこと)30年前のポップスはその軽快なテンポ感が新鮮だった。それは、コンコルドやスーパーカー等、人を乗せた機械の速さを象徴するようなものであった。

新世紀を迎え、最近の演奏はより速さと軽さが好まれるようになっている。一時の古楽器ブームの影響なのか、それともネットワーク、IT等、人の身体を置き去りにして速度を競う機械文明の繁栄を映したものなのか・・・。 モーツァルトの軽やかな世界は18世紀の人にはついて行けなかったのかもしれない。けれど、やがて人は追いつき、200年後の今日、時間に追われる私たちには、むしろ落ち着きと優しさを取り戻すのに欠かせないものになった。

「酒のモツの日々(6)」佐藤滋

 カクテルとは色を楽しむ酒だ。特に鮮やかな赤や青は、グラスを持つ女性の手さえも妖しく染めて誘惑する。「カクテル・グラスにからませた あの娘の白い指 好きになってはいけないかい 僕の可愛い相棒よ」〜フランク永井唄/東京カチート〜より(あっ、また歌謡曲!:編集部)
2001年7月、横手の近代美術館でラウル・デュフィ展が開かれるが、これは音楽を愛する人には必見の展覧会だ。クレーやカンディンスキーのように音楽をキャンバスに表現した20世紀絵画の天才だからである。デュフィは特にモーツァルトを愛し、華やかさの陰に潜む哀愁を色と形に翻案した。傑作「モーツァルトへのオマージュ」等、彼がモーツァルトをテーマにするときには、赤と青が多く使われている。赤と青はモーツァルトの色なのかもしれない。
そういえば、大礼服を着た6才のモーツァルトを始め、クラヴィーアを弾きながら振り向く14才のモーツァルト、家族で音楽を楽しむ24才頃のモーツァルト・・・みんな赤か青の服を着ている。没後1819年バルバラ・クラフト筆の肖像画の中でも「彼」は赤い上着を着て、私たちを見つめている。
実際、赤と青がこれほど似合う作曲家が他にいるだろうか?赤毛のヴィヴァルディと青髭のバルトークぐらいではないか・・・。(当広場の代表はバルトークの熱烈な支持者でもありますので茶化さないでください!:編集部)
今宵、赤や青に染まったカクテル・グラスを持つ美女の白い指を愛でながら、交響曲第31番K.297「パリ」でも聴かれませんか?フランスといえば、赤・青・白ですから。


「酒のモツの日々(5)」佐藤滋

前回(シャンパン)とは対極的なお酒、バーボンについての考察です。バーボンは庶民の酒だ。歌謡曲でさえバーボンが登場できる場は限られている。

(男)もしもきらいでなかったら何か一杯飲んでくれ
(女)そうねダブルのバーボンを遠慮しないでいただくわ
(男)名前きくほど野暮じゃない まして身の上話など
(女)そうよ たまたま居酒屋で横にすわっただけだもの
阿久悠 詩「居酒屋」より

[うわ!モォツァルト広場の機関誌に歌謡曲が載ってしまった!:編集部]

モーツァルトの音楽が聴く人を選ばないのは、彼の音楽の優れた庶民性にあるのだろう。
彼の宗教曲は聖人の為だけでなく、彼のメヌエットは貴族の為だけでなく、彼のピアノは裕福な女性の為だけにあるのではない。それは庶民の喜怒哀楽、そして敬虔、寛容、慈悲の心を持とうとする全ての良心に寄り添ってくれるのだ。彼の歌劇に登場する低音域の人達、例えばザラストロ(魔笛)でさえも威厳の陰に人間の弱さ寂しさをたたえているのは、その庶民性のあらわれであろう。

ところで低音といえば私の愛聴するフランク永井[オイオイ!:編集部]の声もその実人生の悲劇と同様、人間の弱さと哀歓を包んでいるように思えてならない。彼の歌う「公園の手品師」を聴いて「魔法の鈴」(魔笛)を連想するのは私だけであろうか・・・?

[あんただけだよ:編集部]


「酒のモツの日々(4)」佐藤滋

 シャンパンという酒はどうも苦手だ。一日の疲れを癒してくれる友というより、どこか貴族的で背徳的な雰囲気を感じさせる。
そうだ、ドン・ジョバンニこそシャンパンみたいな男だ!(歌劇「ドン・ジョバンニ」K.527/第1幕15場 ドン・ジョバンニのアリア:シャンパンの歌)「こうもり」や「椿姫」にもシャンパンの場面があるが、この酒がもたらす雰囲気には共通するものがありそう。昔クリスマスで98円の「偽シャンパン」の甘さに辟易して以来、大人になっても本物のシャンパンをたしなむ身分になれずに暮らしてきたので未だに馴染めないでいる。(ちなみに本物のシャンパンとはフランスのシャンパーニュ地方で造られたものだけをいう)イヤタカの結婚式で乾杯の時に飲んでも、すぐビールに乗り換えてしまうのは、やはり私はドン・ジョバンニとは対極の真面目人間であるという証拠であろう。(ただの貧乏人とも言えますが・・・)「ドン・ジョバンニ」に登場する人物の様々なキャラクターはモーツァルトが鮮やかに描き分けている。

小生:私はどのキャラクターに近いと思われますか?
M様:そうだねえ。悲劇のヒーロー(騎士長)気取りの、小心で(レポレロ)、えふりこきな(ドン・オッターヴィオ)、田舎者(マゼット)ってところかな。
小生:ううっ、あたってる・・・。


「酒のモツの日々(3)」佐藤滋

 モォツァルトに似合う酒といえばビールだと思う。何も[ビール]=[麦芽(モルツ)の芸術(アート)]=[モォツァルト]などというくだらないシャレを言うつもりはない。(言ってるじゃないか)モォツァルトの最初の旅が、ビールの本場ミュンヘンから始まったからというわけでもない。もっともビール酒場も雰囲気は後に作曲された多くのドイツ舞曲に反映しているのかもしれない。前回の日本酒が『悲しい酒』ならビールは間違いなく『陽気な酒』である。そしてモォツァルトはいつも陽気で人を笑わせ楽しませることが大好きな酒飲みだった。「飲み食いしてこそ」(K.382e)という曲があるくらい。もし彼が今の秋田に暮らしていたら毎日"楽市"に通っていたに違いない。壁の向こう側から彼の素っ頓狂な笑い声が聞こえてくるような気がする。けれども私たちモォツァルト広場会員は知ってるでしょう?彼は自分の心配事など隠しておくだけの羞恥心をもっていたことを。

「さあ、みんな陽気にいこう!誰にだって苦悩はあるのさ。歌って笑おうじゃないか・・・」酒の歌(ツァイーデK.344より)


「酒のモツの日々(2)」佐藤滋

横浜のガード下で秋田の清酒を楽しんだ。阪神大震災で西の酒が入りにくくなった時から試しに入れているのだという。秋田の人にとって地元の酒がどんなに大切か、そしていかに多くの秋田県人がこの街に働きに来ているか(少し寂しい)を訴えながら宣伝をしてきた。それにしても秋田の酒は味は良いがラベルも命名もインパクトに乏しい(良く言えば上品すぎ)。

福島の人に「蔵しっく」という酒を頂いた。酵母にモォツアルトを聴かせて造ったという。味はともかくとしてこれなら素敵なグラスに注いでK617を聴きながら酔い潰れてみたいと思う。秋田のお酒屋さん、全国10万人のモォツアルトファンの為に新しいお酒を造りませんか?甘さ控えた「あまでう酒」なんちゃって。

福島の酒で酔いました。


「酒のモツの日々(1)」佐藤滋

 先日、某酒店でモォツアルトワイン(オーストリア産・白)を見つけ、思わず手が伸びた。
何と、隣にはシューベルトワインというのもある。(ベートーヴェンワインというのは見当たらない。身体を壊しそうで売れないかもしれない)2本買うほど金持ちでもないし、K部長ほどM偏向でもないのでしばし沈思黙考。ラベルを見るとモォツアルトは甘口、シューベルトは辛口とある。
パパゲーノが沈黙を破って飲んだのはどちらであったか・・。
結局、糖尿病になったら飲めないので今のうちに、と甘口を購入。これがなかなか良い。スザンナほど軽妙でなく、ドンナ・アンナほど激しくなく、パミーナほど健気でもない。けれど優しい。例えるならコンスタンツェの味。だからモォツアルトワインの甘さは後宮の風。