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モーツァルト一考・代表 加藤明のコラム(K618)

K304 特別な響きのソナタ

我がモォツアルトが活躍した18世紀中期から後期は、比較的音楽家にとっては恵まれた時代環境であったと音楽史家は唱えております(但し、宮廷での待遇面はすこぶる劣悪であった)。
理由は、モォツアルトの少しまえのあたりから彼が世を去るまでに、ヨーロッパで大陸では大きな戦争が1つもなかった点を挙げています。
曰く、それが証拠に17世紀中期の30年に及ぶ宗教戦争から18世紀のフランス革命の間に、我々がよく知っている大音楽家が活躍しているではないか、云々。
ヴィヴァルディ、バッハ、ハイドン、そして頂点としてのモォツアルトがいるのだ、と。確かにモォツアルトの音色はどちらかと云えばベートーベンよりはヴィヴァルディに組している感が否めません。いま、この拙稿をペーター・マーク指揮のプラハ<Vンフォニー(K504)を回しながら書いております。
モォツアルト特有の躍動感、自由な開放感、簡潔さなどがふんだんに盛り込まれたこの名曲を聴いていると、フィガロの結婚≠ェ大流行したプラハを訪問したモォツアルト(約1ヶ月滞在)に贈ったプラハ市民の拍手喝采が遠くから聴こえて来るようです。私はこのプラハ≠フ躍動感、自由な開放感(拡がりといってもいい)、簡潔さといったモォツアルト音楽の要素に、もうひとつ「語りかけ」要素をつけ加えたいとつねづね思っています。
音楽を聴くという行為が、純化し、発展的な拡がりをもつ為には、聴き手も作曲者と再現する演奏者に応えるという主体的な働きかけが大切になると思われます。
モォツアルトは五線譜上での語りかけの達人であり、その言葉は時に静謐で繊細さを極め、時に大声で大胆に深くそして広く、自由に発散されます。
そして、その言葉の意味するものは、この上ない的確な表現力を得ているために、応える聴き手の感性と情感の世界まで鋭く深く刺激するのではないだろうかと考えるのです。
私がK304のホ短調のソナタに特別な響きを抱いているのは、正にこの語りかけるモォツアルトの姿がそこに視え隠れしているからと思うのです。
さらに、もうひとつ、この語りかけの要素の他にこのK304には明らかに深いところでの内的葛藤があるように思われ、この内的葛藤要素がさらに語りかけを強めていると推察するのです。
この語りかけと葛藤の二つのテーマが混在するK304は、私の堅いはずの涙腺までも刺激する恐ろしい面をもっています。
特に第二楽章冒頭部のピアノのゆるやかな旋律にバイオリンが追奏する場面(曲面?)の寂寥感をただよわせた美しさは(語りかけは)第一楽章の内的葛藤を見事に浮き出す効果をもち、ほとんどここで私は我を忘れます。強いて云えば22才のモォツアルトに身を委ねるのです。
また、この曲のこだわりを強めた理由に、その演奏の素晴らしさもひとつ加担しています。
この曲を、先の語りかけと葛藤の二つのテーマが内在しているとすれば、このテーマをこれ以上先に進めない行きどまりの域に昂めた演奏があります。
それはフィリップス盤のハスキル、グリュミオーの演奏でしょう。このフィリップス盤こそは私のいう特別の響きを充全に再現してくれているものなのです。
60才を超えた晩年のハスキル、枯淡と悟りの境地のこの名ピアニストと、ハスキルへの敬慕の念をもちながらモォツアルトに立ち向かう若きグリュミオー(このときグリュミオーはまだ40才に満たなかった)、この2人のお互いの語りかけこそがこの曲をして、今日まで私たちを引き着けてきたものだろうし、恐らくこのような密度の高い名演は今後とも拝聴できないだろうと思わせます。そういう意味でのこのフィリップス盤は、レコード(記録)そのものなのだと認識している次第です。


〔余 談〕2年前に初めてモォツアルトを訪ねてウィーンに旅したときの話。最初に泊まったホテルのルームナンバーが驚くなかれ304でした!本文とは関係ありません。